啄木歌ごよみ

四月

 故郷を出て1年後、啄木は東京で生活を始めていました。そんな啄木を、故郷の知人が訪ねてくることもあり、啄木は故郷の話に熱心に耳を傾けました。
 ふるさと渋民村、現在の玉山村を北上川が北から南へ流れています。村の北はずれの鶴飼橋からは姫神山と岩手山を望むことができ、川岸には柳が密生していました。こうした風景を何度も思い浮かべては、涙が誘われる啄木でした。
 啄木満24歳の歌です。このころの啄木は、東京の新聞社で校正係として働いていました。しかし中学時代の友人たちは、上級学校を卒業し、目的に向かって輝かしいコースを歩んでいました。金田一京助もその一人で、東京の大学の助手となり、野村胡堂も大学を中退したものの新聞記者としての職を得ます。 こうした友人・知人の様々な活躍の噂を聞くたびに、啄木は志を得ない自分の境遇を悲しく思いました。そして花を買ってきて妻と親しみ、淋しさを紛らわすのでした。


五月

 故郷の寺・玉山村の宝徳寺は、啄木の父・一禎が15世住職を勤めたところです。その寺で、啄木は約18年間過ごしました。啄木が書斎に使った部屋は現在も残っています。
 中学を退学した啄木は、書斎にいて文学への道を模索していました。そんな時、啄木鳥(きつつき)の音に心慰められ、ペンネーム「啄木」となったと言われています。また、寺のヒバの木にやってくる閑古鳥つまりカッコウの声を聞き、その声は啄木の耳から永遠に消えることはなかったのです。
 花が散り、初夏が訪れると誰よりも先に、白い夏服を着て歩く中学時代を懐かしんで詠んでいます。
 啄木は中学2年の明治32年5月13日、友人と盛岡市内の洋服店に行き、夏服を注文したことが友人の日記に記されています。代金は1円30銭でした。啄木と言えば着物に羽織、袴姿がよく知られていますが、中学時代の学生服姿の写真も残されています。なかなかおしゃれな啄木の一面を垣間見ることができるのではないでしょうか。


六月

 北海道から単身上京した啄木は、1年余りを友人の金田一京助と下宿を共にしました。
 明治42年6月14日、啄木の母と妻と子が函館から上京してきました。啄木は東京本郷の床屋「喜之床」の2階の二間を借りて家族を迎えたのでした。それから半年後、青森にいた父も上京してきました。二間の部屋は一家5人が暮らすには狭すぎたのでしょう。家を出たときばかりは「家」の束縛から解き放され、啄木は外の暖かな空気を深く吸うのでした。
 明治41年6月25日に作られた歌です。啄木が北海道から単身上京して、2ヶ月程たった頃です。この日の啄木は次々と歌が浮かんでいました。そして夜2時まで141首の歌を作りました。この中で父母のことを詠んだ歌は約40首あり、「泣きながら作った」と日記に記しています。
 この頃、啄木の父は青森の寺に身を寄せ、母は函館で啄木の妻と共に暮らしていました。親子が離れ離れに暮らしているからこそ、懐かしく思われるのでした。


七月

 明治43年7月26日の夜に作られた歌です。啄木が東京の新聞社に勤めて、1年半程経った頃でした。月の収入は月給30円ほどでした。米味噌の心配だけはしないで、その月を送れるものの、どうしても借金が出てしまうのです。
 このころの啄木は歌集を編集したり、小説や論文なども書き、意欲的に創作活動をしていましたが、それらは必ずしも売れませんでした。悲嘆にくれながらじっと手を見つめる啄木でした。
 啄木の中学1年から3年までの担任・富田小一郎先生を詠んだ歌です。数学を教え、とても厳しい先生として知られていました。
 啄木が初めて富田先生を見たときの印象は、小柄で童顔、顎の下のひげが山羊に似ていると思う一方、うわべを飾ることなく、謹厳な風格をし、生徒に対しては子供や孫に接するようだ、と心から尊敬していました。


八月

 
 明治43年8月28日に作られた歌です。『一握の砂』551首中、この一首をもって渋民を回想する歌をしめくくっています。
 啄木にとってふるさとの山とは、岩手山と姫神山を含めた周囲の山々と解釈することができます。啄木が東京にいて作ったこの歌は、いかにふるさとの山に恋こがれていたかをうかがい知ることができます。それはまた遠くにあるからこそ、美しく思われたのかもしれません。
 
 このドイツ語の辞書は、啄木がドイツ語の勉強を始めた明治39年8月に、当時、東京帝国大学に在学中の金田一京助から譲られたものでした。啄木は、ドイツ文学に非常に関心を持ち、明治36年にはワーグナーの研究に没頭した時期もありました。また上京してからは電車の中の通勤時間をドイツ語の勉強時間に充てたこともありました。
 生活に追われて多くの蔵書を売りましたが、ドイツ語の辞書だけは愛着があって手放すことができなかったのです。


九月

 
 
 啄木が東京で生活を初めて4ヶ月になろうとしていました。その頃、与謝野鉄幹・晶子が催す千駄ヶ谷の歌会へよく出掛け、十数人の歌人たちにまじって、徹夜で百首、歌を作ることもありました。
 当時、啄木は香りや音、味などすべての感覚を使ってふるさとを懐かしみました。そんな時はまたきっと、稜線の均整のとれた美しい岩手山を目に浮かべたことでしょう。岩手山は啄木が幼い頃からふるさとで眺めていた山でした。
 
 
 「不来方城」は「盛岡城」とも呼ばれるお城です。啄木が盛岡中学校に通っていた頃は、お城の近くに学校があり、雑草の生い茂る城址を啄木はよく散策しました。
 明治39年に整備され「岩手公園」となったとき、啄木は文明的な新しい公園の姿も気に入りました。そして城の本丸のあたりに大理石の城を建て、自分は白い髪をドッサリと肩に垂らし、終日読書をして住んでみたい、という夢を小説に書いたこともあります。

十月

 
 啄木と堀合節子が互いに恋心を抱いたのは、明治三十二年の頃でした。啄木は中学二年生、節子も女学校二年生で、共に満十三歳でした。
 やがて啄木が文学の道を志すと、節子は周囲の反対を振り切っても、啄木を陰ながら応援しました。二人が交わした手紙は百幾十もの数に上りました。啄木は宝徳寺の門の糸柳の下に立ち、午後の三時という配達時刻には、盛岡の節子からの手紙を今か、今かと、待ち受けたこともありました。
 
 それは、啄木、満十四歳の頃でした。先生を恐れることもなく、授業中に教室の窓から、あるいはまた後ろの窓から逃れて、一人、近くのお城の跡に行き、草に眠ったことがありました。その頃の城・不来方城は、雑草の生い茂る荒れた城でしたが、啄木にとっては一番、心安らぐ場所だったのです。
 こうして啄木は、クラスで一番欠席が多くなりましたが、そのことで先生に叱られたことも、後にはなつかしく思い出されるのでした。


十一月

 
 
 明治三十二年四月から三年間、盛岡の女学校へ通っていた啄木の妻・節子は、女学校時代はバイオリンを習い、また、美しい声で歌を歌う女性でした。ある時、啄木は東京で、節子のためにバイオリンの糸を探して歩いたこともありました。節子の女学校時代の同級生は、もし節子が結婚していなかったなら、東京の音楽学校へ進んだのではなかったか、とも語っています。
 そんな節子も生活に追われるうちに、音楽について語ることもなくなっていました。
 
 
 啄木の前に現れて、去っていった多くの友人もいます。吉井勇もその一人です。
 明治四十一年五月、啄木は歌人・吉井勇と出会いました。しかし吉井を空想の人、よくない事を特に誇張する人と批判するようになりました。啄木は「人間は自己にある欠点を他に認めて、そして自己にあることを自認した時、その欠点をひどく憎むものだ」と語っています。明治四十三年秋、吉井の処女歌集が出版されると、啄木は、「他の何人の作にも劣らない」と吉井を再び評価しました。


十二月

 
 ふるさとの長くて、厳しい冬を過ごした啄木にとって、「冬」のイメージは、じっと春を待つ静かなものでした。
 かつて、「渋民村の皐月は、一年中最も楽しいときである」と、表現したことがあります。やがて只一度の盛装をこらす」と表現しています。やがて木々の葉が落ちてゆくのを見ると、「我が心の虚飾も段々はげたり」と思い、季節の移り変わりと共に啄木の心も、躍動的な時季からこころ静かな時季へと移っていくのでした。
 
 この歌のモデルは、啄木が小樽の新聞社に勤めていたときの事務長・小林寅吉です。
 それは啄木が小樽の新聞社に赴任して、二ヶ月程が経った頃でした。新聞は初号が発刊になったばかりでしたが、社内に内紛が起こりました。先に、共に三面記事を担当していた野口雨情が退社しました。その後、啄木もまた内紛に巻き込まれ、十二月十二日、寅吉と論争となり、腕力をふるわれたのです。それが引き金となって、啄木は退社を決意しました。


一月

 
 
 明治四十四年一月号の文芸雑誌『創作』に初めて掲載された歌です。啄木満二十五歳の作品です。
 明治十九年二月二十日、岩手県南岩手郡日戸村、現在の玉山村で生まれた啄木は、この頃病気と闘っていました。
 文学を志し、東京へ出たものの慢性腹膜炎、実は結核に苦しんでいました。
 それだけに、「今年こそ」の気持ちがこの歌に表れています。
 
 
 明治四十四年一月号の文芸雑誌『早稲田文学』に掲載された歌で、この時啄木、満二十五歳でした。
 当時、啄木は東京の新聞社に勤めていました。しかし次々病気にかかる家族の薬代にお金を使い、母・妻・娘の一家四人の暮らしは貧しいものでした。
 その貧しさの原因は社会に問題があると考え、新しい明日を考察することが必要だと主張しました。しかし理想と現実のギャップを認識し、未来に一抹の不安も抱いていました。


二月

 
 歌のモデルは、啄木が勤める新聞社の編集長・佐藤北江(ほっこう)です。啄木は初めて北江に会った印象を、「中背の、色の白い、肥った、ビール色の髯をはやした無骨な人」と日記に記しています。
 また、エッセイの中には、非凡と言われる人物の条件の一つに「手が白く大きいこと」をあげています。
 北江は盛岡市出身で、啄木を新聞社に採用した恩人です。北江の人間としての大きさ、たくましさを啄木は感じていました。
 
 当時、啄木が勤めていた新聞社の様子が日記に記されています。広い編集室に沢山の人がいて、方々にテーブルと椅子があり、四方で電話をかける声がひっきりなしに室内に溢れている所でした。
 啄木は四人の人と共に校正の仕事についていました。啄木を除いては年配の人ばかりです。上司に仕えるつらさは、現代のサラリーマンにも共通していると言えるでしょう。


三月

 
 
 盛岡の高等小学校時代の啄木の成績は学業、行状、認定すべてが「善」、今でいうオール5でした。そして中学に入学するときも上位でした。しかし上級に進むにつれて次第に低下し、とうとう卒業学年には落第点をとり、欠席日数も多く、卒業が困難な状況になっていました。
 こうした学業の怠りの原因は文学へ熱中したことや恋愛が挙げられます。また家庭の事情から高等学校へ進学できないことの悩みもあったのです。
 
 
 三月中旬、釧路の海岸に渡り鳥・千鳥がやってくる季節です。しかし、春はまだ遠く、厳しい寒さが続きます。明治四十一年三月十五日、啄木は釧路の知人(しりと)海岸を、夜、友人と共に三人で散策していました。十五夜近い月がこうこうと照り、氷まじりの波が金剛石のように光ってヒタヒタと押し寄せてきました。そのたびに啄木は友人らと共に、自然の神秘に歓声をあげ、「三月十五日を忘れまい」と誓い合いました。




 
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