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平成18年度 石川啄木名歌鑑賞


四月

 作家明治43年8月28日。
 啄木はドイツ文学に非常に関心を持ち、明治36年にはワーグナの研究に没頭した時期もありました。
明治39年8月にはドイツ語の勉強を始めました。
そのころの当時、東京帝国大学に在学中の金田一京助からドイツ語の辞書を譲られたことがあります。その後、上京してからも、電車の中の通勤時間をドイツ語の勉強時間に当てたこともありました。多くの本を読んだ啄木は、あまり本を手元に置く主義ではなく、読んでは次々と本を売りましたが、ドイツ語の辞書だけは手放すことができなかったようです。
  
 初出「東京朝日新聞」明治43年5月5日号。
 啄木が東京朝日新聞社に勤めて1年ほど経った頃の歌です。夕方の活気あふれる新聞社を表現することによって、自信と誇りを持って勤めている気持ちが間接的に表現されています。その頃の啄木は、新聞社の中でも歌の才能が目立ち社会部長の渋川柳次郎が「出来るだけの便 を与へるから、自己発展をやる手段を考へてきてくれと言った」といいます。啄木は歌集の出版を企て、8ヵ月後、「一握の砂」として出版しました。また、朝日歌壇の選抜にも抜擢され、心身ともに充実していました。


五月

  作歌明治43年8月28日。
 『一握の砂』551首中、この一首をもって渋民を回想する歌54首をしめくくっています。啄木にとってふるさとの山とは、岩手山と姫神山を含めた周囲の山々、と解釈することができます。啄木が故郷を離れて3年が過ぎたころに東京で詠んだもので、故郷は遠くにあるからこそ、美しく思われたのでしょう。故郷に帰りたいと願いつつも、もう2度と戻ることはありませんでした。

 作歌明治41年6月25日。 
 啄木が単身上京して、2ヶ月程たった頃に作られた歌です。この日の啄木は、頭がすっかり歌になっていて、何を見ても、何を聞いても皆、歌になるのでした。そして
夜の2時すぎまで141首の歌を作りました。この中で父母のことを詠んだ歌は約40首あり、「泣きながら作った」と日記に記しています。この頃、啄木の父は青森の寺に身を寄せ、母は函館で啄木の妻と共に暮らしていました。親子がはなればなれに暮らしているからこそ、父母が懐かしく思われるのでした。


六月

 初出「スバル」明治43年11月号。
 歌集「一握の砂」の中では、故郷を回想した歌54首中の1首になっています。「わびわびしい雨の音、雨滴の音…それを目を瞑(つぶ)ってきいてゐると、渋民の寺にゐた頃の、静かな、わびしい、そして心安かった夜の雨がしみじみと思い出された」と啄木は日記に記しています。(明治42年3月12日)。東京で暮らす啄木は、都会の雨を見ているうちに、故郷の雨を思い浮かべることが何度もありました。馬鈴薯、つまりジャガイモの花は初夏に薄紫色の花を咲かせます。薄紫色を好んだ啄木は、薄紫色の馬鈴薯の花は特に好きだったのかもしれません。そして梅雨の時期は一層、故郷を思い出されるのでした。

 作歌明治43年10月13日夜。
 啄木は持っているわずかばかりのお金を工面して、花を買うことがよくありました。あるときは妻・節子がチューリップやフリージャの花を買ってくることもありました。そのころの啄木は東京の新聞社で校正係として働いていましたが、中学時代の友人たちは上級学校を卒業し、輝かしいコースを歩んでいました。金田一京助もその1人で、東京の大学の講師となり、野村胡堂は新聞社に勤めていました。こうした友人の様々な活躍の噂を聞くたびに、啄木は志を得ない自分の境遇を悲しく思うのでした。


七月

 初出は歌集「一握の砂」。
 明治39年の9月2日から4日間、渋民村では盆踊りが行われました。旧暦で言えばちょうど7月14日から16日の盂蘭盆にあたります。盆には太鼓が15,6、踊り手が200人位出て輪を作り、盆踊りが行われました。当時、渋民小学校で代用教員をしていた啄木も毎晩踊りました。ある時は少女から借りて、女の単衣に唐縮緬の帯、編笠を被って夜更けまで踊り、生徒にも踊ることをすすめました。

 作歌明治43年8月3日夜―4日夜。
 「すずろなり」とは「なんとなく心が引かれる」という意味です。明治40年5月4日、啄木は桐下駄の音軽やかに遂に家を出ました。北海道への旅の始まりです。そして静かで、長閑な好摩駅に立った時、「この美しい故郷と永久の別れになるのではないか」と思うと、骨の底がとても寒くなるの覚えたといいます。盛岡以北の東北本線は明治24年に開通しました。啄木にとっても悲喜こもごもの思いを抱いて立った故郷の駅でした。


八月

 作歌明治41年8月29日夜千駄ヶ谷歌会。
 単身、東京で暮らし始めて4ヶ月になろうとしていた啄木は、同郷の友・金田一京助と盛岡弁で、
故郷の話をすることがよくありました。そんなある日、二人は茨島から見た岩手山の美しさを讃えあい、言い尽くすことができずに、涙だらけ手を振って、酔いどれみたいに泣いたといいます。また日記には「茨島の秋草の話、虫の話で、泣きたい位動悸した」とも記されています。(明治41年8月28日)

 作歌明治41年8月8日千駄ヶ谷歌会。
 啄木は故郷の秋を次のように記しています。「天晴れて西風吹く。目をとじて風の音を聞けば、その音みちのくの野分に似たり。岩手山の裾野の枯れ草、目もはるになびき伏す状(さま)などそぞろに思い出され候。さういえば、障子の破れのはたはたと鳴るも、かの霜枯(すか)れ立つ唐蜀黍(とうもろこし)の葉の囁(とぶや)きかと聞かれ候(「百回通信 23」)啄木の心に残っている故郷の秋の風景がここにあります。


九月


 
 初出「スバル」明治43年11月号。
 砂は為されるがままに指の間から落ちていきますが、そのむなしさを感ずると同時に、生命あるものの深みとかなしさを感じていたのかもしれません。かつて啄木は「最も興味ある事実は人間なり、生存なり」と、日記に記したことがあります(明治40年9月5日)。啄木は生きとし生けるものすべての生命を深く、鋭く見つめ、それがあらゆる作品の根幹となっているとも言えましょう。この歌は歌集『一握の砂』の書名を暗示するものになっています。




 
 初出「スバル」明治43年11月号。
 啄木の妻・節子は、女学校時代にはバイオリンを習い、また、美しい声で歌を歌う女性でした。金田一京助宛の啄木の書簡には、「せつ子御伺ひ申せしや否や。(中略)洋絃(バイオリン)に熱中して兄をお伺ひもせぬとならば、これは叱るべき事也。」(明治38年1月7日)とあり、音楽に熱中する妻を微笑ましく見ていたようです。節子の女学校時代の同級生も、もし節子が結婚していなかったら、東京の音楽学校へ進んだのではなかったか、と語っています。そんな節子も節子も生活に追われる中で、音楽について語ることもなくなっていました。



十月


 初出は歌集「一握の砂」。
 啄木の初恋の相手は、後に妻となる堀合節子です。
2人の恋愛は共に数え年14歳のときに始まりました。そのころ女学生だった節子は、音楽を愛し、文学に理解を示すモダンな女性でした。周囲の反対を押し切って婚約したのは、明治37年1月のことで、啄木は「ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と2人として希望の年は来りぬと絶叫す」と日記に記しています。(明治37年1月14日)。苦しく、長い恋愛時代がここで終わります。翌年6月4日、盛岡に構えた新居に入りました。



 初出「文章世界」明治43年11月号。
 啄木が函館の小学校で代用教員をした頃に、一緒に勤めていた橘智恵子を詠んだ一首です。啄木は「橘智恵子君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし」と日記に記しています。(明治40年9月4日)。大火のために焼けた小学校を退いて、札幌の新聞社への赴任が決まった啄木は、出発前日、智恵子を訪ねました。2時間ほど語り合い、智恵子に自然に惹かれていく自分を感じていました。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいました。現在、智恵子の実家の庭には林檎発祥の地碑が建ち、啄木のこの歌が刻まれています。




十一月

 
 初出「スバル」明治43年11月号。
 啄木にとって、花の名が何であるかということよりも、小さくて、人に顧みられることなく咲いている花であることに深い意味があるのです。文芸雑誌『精神修養』にも「路傍の草花に」と題して、「何といふ名か知らないが、/細い茎に粟粒のやうな花をもった/黄いろい草花よ、路傍の草花よ。/ ― 何だか見覚えがある。」とあり、中学校の図書庫の蔭に咲いていたことを詠んでいます。この花が何であるか植物に詳しいかたならすぐに見当がつくことでしょう。しかし、あえて名前を知らなくても良いのかもしれません。


 初出「スバル」明治43年11月号。
 不来方城内の名残りがある盛岡市内丸通りは、幅の広い美しい通りです。その通りには県庁、市役所、師範学校、裁判所、そして盛岡中学校がありました。中学校の門柱の両袖には、白い木の柵が並び、柵の前には一列をなして桜の老木がありました。澄み切った秋の大空に、師範学校の大きな鐘が午後3時を告げた時中学生の啄木は、いつもその鐘楼の下を西へ歩いたと言います。石割桜で名高い裁判所の前を通り過ぎ中学校に着くと美しく紅葉した桜の葉が、秋の日に照らされて、静かに燃えるように見えたのでした。


十二月

 
 
初出「東京朝日新聞」明治43年5月9日号。
 啄木が厳寒期の釧路で過ごして2ヶ月程が経っていました。夜ウッカリ下駄をつっかけて戸外に出た啄木は、心地よい気分になり、知人(しりと)海岸へ歩いて行きました。
海はやはり静かで、月は明るく、汐が引いていて、氷っている砂の上を歩いていくと、「千鳥が啼いた」と啄木は言います。「千鳥!千鳥!月影が啼くのか、千鳥の声が照るのか!頻りに啼く。」と日記に記しています。(明治41年3月17日)。忘れることができない美しい光景を啄木は見たのでした。

             


 

 初出「東京朝日新聞」明治43年3月25日号。
 東京生活も2年が経とうとしていました。以前、啄木は「若し真に恋をするには、矢張自分の全体―身も心も事業も理想も知つてゐる人でなくちや駄目だ、これは最近僕が悟つたのだ」と友人に宛てて手紙を書いたことがあります。(明治41年6月27日 吉野章三宛)。生活に疲れを感じていた啄木は、少しのときめきと生きている実感が欲しかったのかもしれません。




一月

 
 初出「創作」明治44年1月。
 この歌が作られたころの啄木は、歌集「一握の砂」の出版に明け暮れていましたが、その一方では、生まれたばかりの長男真一を亡くすなど、不幸な出来事もありました。友人の宮崎郁雨に宛てた書簡には「僕は然し来年は屹度いヽ年だらうと思つているよ、御幣をかつぐやうだが今年は後厄だつたからあなア」(明治43年12月30日)とあり、この1首には「今年こそは」という気持ちがこめられています。



 初出「早稲田文学」明治44年1月。
 当時、啄木は東京の新聞社に勤めていました。そのころに書いていた論文「時代閉塞の現状」には、教育の問題、失業者の問題などが書かれてあり、さらに『我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、其処に我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。』と述べています。新しい未来が来ることを期待しながらも、一抹の不安を抱きながら、26歳2ヶ月の短い生涯を遂げました。




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