平成17年度 石川啄木名歌鑑賞


四月

 作歌明治四十三年八月三日夜―四日。
 柾屋根とは薄い板状のものを幾枚も重ねた屋根のこ
とです。啄木は明治二十四年、渋民尋常小学校に学齢
よりも一年早く、五歳で入学しました。短い小倉の縞
の袴に、紺のかすりの着物を着て、当時はまだ珍しか
った革のカバンを肩にかけて通いました。明るく、活
発な一面もあったようで、小学校の柾屋根に鞠を投げ
てひっかけることもあったのでしょう。この日、啄木
は幼き日々の故郷を回想した歌をいくつも作っていま
す。

  

 初出「東京朝日新聞」明治四十三年十月十九日号。
 明治三十一年四月に啄木は盛岡中学校に入学しまし
た。啄木は中学校を次のように表現しています。「雪
白の衣を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌ
ッと立って居る。これは此市で一番人の目に立つ雄大
な二階立の白亞館、我が懐かしき母校である。」啄木
はこの中学校のふところに抱かれながら、あるときは
小ナポレオン、またあるときは小ビスマルク、小ルソ
ー、小バイロンなどを気取って過ごしたといいます。
夢と希望を抱いていた時代でした。



五月

 初出は歌集「一握の砂」。
 すでに出郷が決まっていた啄木の目に、故郷の春は
静かに、美しく横たわっていました。山々にはコブシ
の花が咲き、麦は青く、暖かな風が吹いていました。
北上川の川岸の柳は目もさむるばかりに浅緑の衣をつ
けて、清けき水に春の影を投げていた、ともいいます
(明治四十年五月三日の日記)。北上川の輝きは、啄
木の涙の輝きと重なっていたのかもしれません。この
ような故郷の風景を脳裏に焼き付けて、啄木は故郷を
あとにしたのでした。

  

 初出は歌集「一握の砂」。
 啄木が函館の大森浜の砂山に咲く浜薔薇に思いを寄
せて詠んだものです。ハマナスは北国の海岸砂地に自
生し、夏に鮮やかなピンク色の花を咲かせますが、啄
木は初めて北遊した明治三十七年の秋にも、青森県の
野辺地の浦でハマナスの香を吸ったといいます(「閑
天地」十五)。東北の山中で育った啄木は、このよう
な海辺の植物との親しみが薄かったこともあり、ハマ
ナスとの出会いは新鮮なものでした。またハマナスの
花が咲いていた時季は、函館の海と親しんだひととき
でもありました。



六月

 作歌明治四十一年六月二十四日午前。
 歌集「一握の砂」の冒頭歌がこれです。函館の大森
浜が歌の舞台と言われています。また啄木は太平洋を
「東海」と表現し、すなわちそれは「日本」を意味し
ます。北海道から上京して二ヵ月ほどが経ったころに
作られた歌で、間もなく暑い夏を迎え、海を懐かしむ
ようになると、啄木は次のように語っています。「海
といふと予の胸には大森浜が浮ぶ。」−生れて初めて
水泳を習い、また、夕方の散策を楽しんだのも大森浜
でした。「力ある海の言葉は深く予の耳底に刻みつけ
られてゐる」とも語っています(「汗に濡れつゝ」)。

  

 初出「スバル」明治四十三年十一月号。
 明治四十年五月五日から、啄木の函館生活が始まり
ました。やがて故郷に残して来た妻子が来道すると、
青柳町に新居を定めました。にぎやかな家庭を再びに
取り戻したのです。そんな啄木の家には、宮崎郁雨を
初め苜蓿社の同人が訪ね来ては詩歌を談じ、文学を論
じ、世間を批判し、またよく恋愛を語りました。特に
恋愛については、啄木夫婦の健気な恋愛に魅せられた
といいます。(宮崎郁雨著『函館の砂』より)この青
柳町時代は、八月二十五日、函館市が大火に見舞われ
るまでの百三十余日間のことでした。



二月

 初出は歌集「一握の砂」。
 明治41年1月19日、啄木は小樽駅を出発して釧路へ向かいました。家族を小樽に残し、単身、釧路新聞社へ勤めるためでした。その時、妻が子供を背負って雪の吹き込む駅に見送りにきていました。妻のいつもの三日月形の眉には、淋しさと不安な気持ちが表れていました。そして啄木もまたその時、「予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ」と日記に記しいます。

  
 初出は歌集「一握の砂」。
 「両側百戸足らずの家並みの、十が九までは古い茅
葺勝(かやぶきがち)で、屋根の上には百合や萓草や
桔梗が生えた、昔の道中日記にある渋民の宿場の跡が
これで、村民はたゞ町と呼んでゐる」と啄木は小説
「鳥影」の中で、渋民の様子をこのように書いていま
す。啄木が目に焼き付けていた故郷の風景でもありま
す。村の中を北上川が流れ、岩手山、姫神山を眺め、
この美しい風景を愛し、悲喜哀楽を共にした村の人々
を愛しました。



三月

 初刊「スバル」明治43年11月号。
 「不来方城」は「盛岡城」とも呼ばれるお城です。
啄木が盛岡中学校に通っていた頃は、お城の近くに学校があり、雑草の生い茂る城址を啄木はよく散策しました。
明治39年に整備され、「岩手公園」となったとき、啄木は文明的な新しい公園の姿も気に入りました。
そして城の本丸のあたりに大理石の城を建て、自分は白い髪をドッサリと肩に垂らし、終日読書をして住んでみたい、という夢を小説に書いたこともあります。
  
 初出は歌集「一握の砂」。
 啄木の中学一年から三年までの担任・富田小一郎先生を詠んだ歌です。数学を教え、とても厳しい先生として知られていました。啄木が初めて富田先生を見たときの印象は、小柄で童顔、顎の下のひげが山羊に似ていると思う一方、うわべを飾ることなく、謹厳な風格をし、生徒に対しては子供や孫に接する様だ、と心から尊敬し、また、親しみを抱いていました。中学三年生の時には、クラスで三陸海岸へ旅行し、そのときの引率も富田先生でした。




 
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