今月の花と歌


啄木の歌集や日記を繙きますと、花を愛でる啄木の姿にたびたび出会う
ことができます。啄木にとって花は一瞬、一瞬を印象づけるものであり、
またある時は心の色を映し出したり、心を慰めるものでした。
ここでは、啄木が触れた花々をご紹介していきます。




スミレの歌 スミレ
 明治41年10月23日の歌稿ノートにある歌で、「岩手日報」(明治41年11月3日)と、文芸雑誌の『明星』(明治41年11月号<終刊号>)に発表されました。
 秋に作られた歌ですが、スミレは春一番に咲きます。雪解け間もない4月初めの渋民村(現玉山村)---啄木はひとり宝徳寺のほとりを歩いている時、スミレの花を見つけたことがあります。それをていねいに摘み取って家に持ち帰りました。弱きもの、小さな花に心を寄せる啄木でした。
サクラの歌 サクラ
 明治41年2月27日の釧路新聞に発表された歌です。釧路から上京して1年経った明治42年4月11日、啄木は金田一京助と共に浅草公園へ花見に出掛け、隅田川の川下りをし、雲のように広がっているサクラの花を眺めたことがあります。亡くなる1年前のサクラは、啄木の目に何となく寂しい色に映りました(明治44年4月2日の日記より)。明治45年4月13日、啄木が亡くなった日の朝、家の門のサクラが散っていたことが、若山牧水によって伝えられています。サクラは啄木にとって、大変縁の深い花と言うことができましょう。



リンゴの歌 リンゴ
 明治43年11月号の文芸雑誌『文章世界』に発表され、歌集『一握の砂』に収められた歌です。啄木が函館の弥生尋常小学校で代用教員をしていたころに、一緒に勤めていた橘智恵子を詠んだ歌の一首です。啄木は智恵子を「まっすぐに立てる鹿ノ子百合」と表現し、智恵子に魅かれていました。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいました。
 現在、智恵子の実家の庭には「北海道林檎発祥の地」の碑が建ち、啄木のこの歌が刻まれています。



ユリの花
 石川啄木はことのほかユリの花を好みました。盛岡中学時代もそうでした。当時、文学仲間たちがそれぞれの嗜好をあげた時、啄木は花では「百合の花」と答えました。そして、恋人の節子さんを密かに「百合の君」と呼んでいたのです。
 北海道から単身で上京し、金田一京助と同じ下宿で暮らしながら、文学活動の準備をしていたときの6月には、何度もユリの花を買い求めています。
 それは明治41年6月13日に始まります。啄木は、午前、為替を受け取り、湯に入り、髪をかってさっぱりした後、原稿紙、足袋、櫛、香油、郵便切手などの買い物をしましたが、ユリの花も買いました。
 それからまた10日ばかりして、午前10時に起き、小雨を犯してアジサイと白いテッポウユリを30銭で買い、帰りには氷を飲んで帰りました。その日の日記には「花を新しくした心地はよい。」と記しています。夜はユリの花の香りがほのかにこもる部屋で、心安らかに眠りについたのでした。
 さらに2日後、夕方にまたユリの花を買って来て、白のうちに一本の赤を交えて楽しみました。
 それから間もなく、歌興が湧き、一日に140余首の歌を作りました。啄木の頭はすっかり歌になっていました。何を見ても、何を聞いても歌になってしまうのでした。
 それはユリの香りの魔力だったかもしれません。
 ユリを詠んだ歌には次のようなものがあります。

ユリの歌





バレイショの花
 6月中旬ころからバレイショ、つまりジャガイモの花が咲きます。
 石川啄木のふるさと・渋民を歩いていても薄い紫色の花や白い花をつけたジャガイモの花を見ることができます。
 花の色はジャガイモの品種によって異なりメークィーンは白、男爵は薄紫色の花をつけるといわれています。
 啄木は色では薄い紫色を好みましたので、目に止まったのは男爵の花だったのでしょう。
 ジャガイモの花は大きな葉に隠れ、目立ちませんが、そんな控えめな花にも心を止める啄木は、心優しい人だったといえましょう。
 そしてまた、東京にいる啄木にとって、梅雨の季節には故郷の雨とともにバレイショの花が思い出されてならなかったようです。
 ジャガイモの花を詠んだ歌には次のような歌があります。
バレイショの歌1
バレイショの歌2



ハマナス

ハマナス

 


 今年もハマナスが、鮮やかなピンク色に染まりながら咲いています。
 ハマナスは本来、浜辺に咲くといわれていますが、海から遠く離れた渋民の地でも咲いています。どなたが植えたのでしょうか?
 明治40年のひと夏を、函館で過ごした石川啄木は、よく大森浜を散策したものでした。その時に啄木の目に鮮烈にハマナスの花が焼きついたのでしょう。いつしか海と共に思い出される花になっていました。

 

 こんなこともありました。
 6月の大森浜で、啄木は友人と二人で寝ころんでいた時のこと。二人は食べ残しの大きい夏蜜柑を砂に埋めたことがありました。それについて啄木は次のように説明しています。
 「南国の山に熟んだ夏蜜柑を、北海の浜の砂に埋めるとは面白いことだ。温かい砂に埋めてやると、夏蜜柑は屹度南国の山の暖かさを夢に見るかもしれない。」
 「そのころの予は、然うだ、矢張若かつたのだ。今も若いがその頃はまだまだ若かつたのだ。それだけに、その頃の事を思い出すと何となく恥ずかしい。と共に懐かしい。」

(「汗に濡れつ ゝ」より)

なかなか理解できない事のように思われるかもしれませんが、海から遠い、渋民の地に咲くハマナスを見たなら、啄木の気持ちがおわかりいただけると思います。
 渋民に咲くハマナスに耳を近づけてみましょう。すると、潮の香りがし、波の音が聞こえるような気がします。
 啄木の言葉を借りると、「渋民のハマナスは、海を夢見ながら咲いているのだ」と言えましょう。

 
ハマナスの歌



 

ダリヤ

 庭先のダリヤがだいぶ前から咲いています。まだまだつぼみがたくさんついていますので、8月いっぱいは咲いてくれるでしょう。
 ダリヤの花を見ていると、あの悲しい出来事が思い出されてきます。明治44年のちょうどダリヤの花が咲いている時期のこと。石川啄木は肺結核のため、自宅で療養していました。
 そのころでした。啄木の妻・節子さんの実家から、盛岡から函館へ移住する旨の便りが来ました。節子さんは何とか理由をつけて実家へ帰りたかったのでしょう。2年近く、両親や姉妹の顔を見ていなかったのですから、どんなに恋しかったかしれません。
 しかし、啄木はそれを許すわけにはいきませんでした。何故なら、一昨年、節子さんが実家へ家出し、大騒動したことで懲りていたのです。また、啄木の体調も良くなかったのでしょう。
 しかし節子さんは、とうとう帰るためのお金を捻出し、「実家の妹から、帰ってこいという手紙が来た」と、啄木にウソをつきました。
 啄木は節子さんの計略を見抜き、節子さんに欺かれたことを知りました。それが啄木にとって、どんなに悲しく、くやしかったことか。啄木は節子さんに離縁を申し渡しました。しかし節子さんは出ていきませんでした。
 そんな時にダリヤを見つめる啄木の心境は、張り裂けんばかりに苦しく、悲しかったことでしょう。そしてまた節子さんも同じだったでしょう。

 
ダリアの歌
 

※「放たれし」とは「追放された」という意味です。