 「学制の整備という点に於ては、種々非難すべき問題も少なからずあるけれども、ともかく日本は東洋一である。然し、学制の完全不完全は、人間を教育するという大問題を論ずる際に当たっては、決して重大なる事ではない・・・・・真の人と真の精神とあれば、他に何ものが無くても立派な教育は出来る。もしそれ完全な教育学と学制とがあっても、それを活用する「人」が無ければ、一切のものが無いよりもまだまだ危険な結果に陥る。」
【「林中書」より(盛岡中学校校友会雑誌第九号・明治四十年)】 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「教育は人なり」とよく言われる・・・。藩校や寺子屋などの教育を通じて、明治五年の学制(太政官布告として公布)発布以前も日本の教育レベルは相当なものだった・・・加えて明治政府の推し進める近代化の中で教育は重点施策の一つとして取り組まれていた・・・・「富国強兵」「殖産興業」を支えるものとして・・・・啄木のふるさとでも明治六年にはさっそく宝徳寺に渋民尋常小学校が開校している・・・。啄木が生まれる二年前の明治十七年には、待望の校舎が完成した(啄木記念館中庭に移築復元されている)・・・教育を大事にした全ての村民の意志の結集・・・。国レベル、地方レベル双方において、先人はえらかったなーと、朝な夕なに校舎を廻っては、連子格子(れんじこうし)・障子窓からの光の中にある教室と木製の机・いすを見ては、つくづく感じ入っている・・・・。 学齢一年前に小学校に入学し、神童と言われる程の成績で卒業後、盛岡の高等小学校、旧制盛岡中学校というエリートコースを歩んだが、中退という一種の挫折経験を経ながらも己の信ずる道をひたむきに追い求めて生きた啄木・・・教師として必要とされるセンスにおいても非常に豊かなものを持っていた・・・・そして、本質を見抜いている・・・。
[筆]石川啄木記念館館長 菅原壽 (陸前高田市出身)
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